紅蘭の思い出 続・サクラ大戦前夜
(現在執筆中)
李紅蘭が初めて榊原由里に会ったのは太正十年の十月のことだった。帝国華撃団花やしき支部の一室で、二人は帝国華撃団の入隊式を済ませたのである。
十月という中途半端な時期のことだ。このとき一緒に入隊したのは紅蘭、由里、イリス・シャトーブリアンの三人きりだったはずだ。
イリス・シャトーブリアンは、フランス人の小さな女の子で、アイリスという愛称で呼ばれていた。大金持ちのご令嬢とかで、紅蘭が神戸から帝都まで乗せてもらった豪華客船は、アイリスが父親から贈られたものだという。
もちろん紅蘭はアイリスと一緒にその船で帝都まで来たのだが、アイリスは直接銀座本部に連れていかれてしまい、この花やしき支部へは紅蘭だけが来たのである。
ただし一人きりだったのではなく、帝国華撃団の副指令である藤枝あやめが同伴していた。そうでなければ、一般には秘密になっている花やしき支部を見つけるのは至難の技だったろう。
司令長官である米田一基陸軍中将は銀座本部にかかりきりで手が離せなかったため、藤枝あやめ副指令が代理として式を行った。入隊式と言っても形ばかりのもので、紅蘭も私服のチャイナドレス。由里も故郷の静岡から出てきた私服のままだった。
形式的な儀式が終わると、あやめは言った。
「紅蘭。あなたは花組に配属されることになるわ。でも、それはまだ先のことだと思ってちょうだい。研修が終わったあとも、しばらくはこの花やしき支部で技術面の仕事をしてもらうことになっています。このことは米田長官から聞いているわね?」
「はい、聞いてます」
紅蘭は答えた。しかしアクセントはどこか変な関西訛りを含んでいたかもしれない。
あやめは頷くと、次は由里に言った。
「由里。あなたの配属先はまだはっきりとは決まっていないの。たぶん銀座本部、というより大帝国劇場で事務の仕事をしながら、帝撃の職務にも就いてもらうということになると思うわ」
「はい。わかりました」
由里も答える。
あやめが二人に言った。
「二人とも将来は重要な仕事に就いてもらうことに間違いないの。だから、あなたたちもそのつもりでしっかり頑張ってね」
「はい!」
二人が元気良く返事をする。
「よろしい。では、今日は個人的な荷物の片付けなんかがあるでしょうから、これで終わりましょう。研修は明日から始まるから、今日は早めに休みなさいね。それと寮への案内は誰かをよこしますから、それまでこの部屋で待っていて」
「分かりました」
「それじゃ、明日、またここで会いましょう」
そう言うと、あやめは部屋を出ていった。
あやめが出て行くと、すぐに由里が紅蘭に話しかけてきた。
「わたし、榊原由里って言います。よろしくね!」
紅蘭も名乗った。
「うち、李紅蘭言いますねん。こちらこそ、よろしゅう」
そのアクセントと訛りに由里がちょっとおもしろそうな表情をした。
「うふ。変わったしゃべり方なのね! その服や名前からすると中国の人に見えるけど、紅蘭さんは関西出身なの?」
由里の言葉は他の人が言ったとすれば失礼なものだったかも知れない。しかし気さくな由里の口調はそんな感じを与えないものだった。だから紅蘭も本当のことを答えた。
「うちは本当は中国の北京で生まれたんや。そやけど、ここに来る前に神戸で二年半ほど暮らしててん。日本語はそこで覚えたんやけど、教えてくれた人も外国の人やったから、その人の癖がうつったんやろか?」
それを聞くと由里は納得したらしい。
「ふうん。でも、たった二年半でそこまで日本語がしゃべれれば大したものね!」
「そ、そんなことあれへんで。うち、いつもみんなに、変な関西弁やて言われてるし」
紅蘭がちょっと赤くなりながら答える。
「うーん。確かにちょっと変な言葉遣いよね。……よしっ! これからは私が少しづつ紅蘭さんに帝都風の言葉遣いを教えてあげるわ」
突然の由里の申し出に紅蘭は慌てた。
「えっ!? そんなんええで、由里はん。うちはこれもうちの個性やと思てるねん」
「そーお? だったら仕方ないわね。せっかくあなたと仲良くなれるきっかけになると思ったのに」
由里が残念そうに言った。それを聞いて紅蘭が驚いた。
「仲良くって、うちとかいな?」
「もちろんそうよ。こうやって一緒に帝撃に入ったのも何かの縁じゃない。だから仲良くしてね!」
紅蘭はまた赤くなった。
「うち、そんなこと言われたん初めてやし、なんやこそばいな」
あやめに見い出されて日本に来るまでは、紅蘭はつらい毎日を送っていた。
裕福な貿易商の家に生まれたものの、辛亥革命によって両親と姉、家を同時に失い、紅蘭だけが死の直前で救われた。しかし紅蘭を助けてくれた農家での暮らしは、決して楽なものでも喜ばしいものでもなかった。もちろん学校にも行けなかった。
農家の里子の生活の中で、とうとう紅蘭は本当の友人を得ることはなかった。唯一、その農家の次男の嫁であり、三つ年上だった慶美とは仲が良かったのだが、友達ではなかった。仲がよかったのは、二人がその家ではよそ者だという立場が似通っていたからに過ぎない。
その後、あやめに連れられて中国から日本へ渡り、神戸に住むパーシー・ホワードというイギリス人に引き取られた。ホワードは紅蘭の父親代わりであり、先生でもあったが、やはり友達と呼ぶには年上過ぎるだろう。
そんな過去を持つ紅蘭だから、由里の屈託のない言葉と態度は新鮮でもあり、恥ずかしくもあり、またにわかには信じがたいことでもあった。
しかし、由里はそんな紅蘭の過去など知りはしない。彼女の陽気さは生まれながらのものだった。今まで出会った友達にも同じように接してきたので、紅蘭にも同じような態度をとっただけなのだ。
由里は紅蘭が照れたことを不思議に思ったようだ。
「なあに? 紅蘭さんって照れ屋さんなのかしら?」
「そんなことはないねんけど、うち、学校も行ってないさかい、今まで友達なんかおれへんかったもんやから」
紅蘭はまた正直に答えた。由里になら自分の過去を、少しだけ話してもいいように思えたからだ。
本当は紅蘭は自分のつらい過去をあまり人に知られたくなかった。だからこれ以上、詳しいことを聞かれたらどうしようかとも心配していた。
だが、由里はそんなことには興味がなかったのか、それとも紅蘭の気持ちを察したのか、それ以上は尋ねようとしなかった。
「そうなの? じゃ、これからこの帝撃や帝都でいっぱい友達を作ればいいわ。わたしたち、まだまだ若いんだもの。これからよね!」
ここで由里の興味は別のところへ行ってしまった。
「そうそう! 紅蘭さんはいくつなの?」
自分の過去の話題から離れて紅蘭は内心ほっとした。そして答えた。
「十六才ですねん」(注:数え年。由里も同様)
「じゃ、わたしのほうがお姉さんね。わたしは二十才だから」
由里はそう言ったが、お姉さんっぽい態度は微塵もない。しかし紅蘭は由里が年上だと分かってちょっと慌てた。
「ど、どうもすんません。うち、由里はんが年上やて知らへんかったさかい、失礼なこと言うたんちゃうやろか?」
確かに大人っぽいツーピースに派手な帽子、うっすらと化粧をしておしゃれをしている由里は、紅蘭よりずいぶん年上に見える。いや、由里がそんなおしゃれをしているからこそ、本当の年齢がわからなかったのだ。
紅蘭が萎縮してしまったので、由里のほうが驚いた。
「あら、急にどうしたの? 友達どうしなんだから、どちらが年上かなんて関係ないわよ。紅蘭さんにそんなこと言われたら、由里のほうが困っちゃうじゃない」
由里が笑った。その笑顔を見て紅蘭はほっとした。そして由里が四つも年上だと知っても、普通に話せそうに思えてきた。
紅蘭はおずおずと言った。
「あのう、由里はん……? うちのこと呼び捨てで『紅蘭』って呼んでくれません? どうも『さん』づけで呼ばれると、こそばゆうてたまりませんねん。うち、今までそんな丁寧に呼ばれたことないさかい」
由里はあっけらかんとして言った。
「いいわよ。その方が友達らしいわよね。じゃ、紅蘭。あなたもわたしを『由里』って呼んでね」
「えっ!? うちもですかいな? なんぼ友達や言うても、年上の人を呼び捨てするやなんて……」
紅蘭は困った顔になった。でも由里は笑っていた。
「それはずるいわよ、紅蘭。年なんて関係ないって言ったばかりでしょ」
「そやけど……」
「だーめ! じゃないと、友達になってあげない」
友達になろうと言い出したのは由里の方なのに、由里の論法はそんなことにはおかまいなしである。そんな由里の言葉にも、紅蘭は不快な思いを全然受けなかった。それどころか、由里にそう言われると自分が間違っているように思えてくる。
「ほんなら、うちも『はん』をつけんと呼ばせてもらいます。でも、なんや悪いような気がするわ……」
「うふ。すぐに慣れるわよ」
そう言うと、由里はモデルにでもなれるくらい小さく整った顔を、人懐っこい表情にして微笑んだ。
紅蘭と由里が入ることになった寮は浅草にあった。花やしき支部の真上ではないが、すぐそばと言えるところである。
アパートやマンションといった集合住宅が珍しかった時代のことだ。その洋風の建物も新しく建てられたものらしい。しかし表向きは花やしき遊園地の従業員寮ということになっていた。実際にそこに住んでいる人たちは、帝撃のメンバーでありながら花やしき遊園地の従業員でもあったのだ。
その家は二人にとっては十分に広かった。洋風の作りであり、洋風のキッチンであった。水道とガスと蒸気もひかれていた。
その家の造りを確かめていた由里が言った。
「うーん。さすが帝撃って日本で最先端の組織よね。わたし、こういう部屋に住んでみたかったの」
由里の声はうれしそうである。
「いいわねえ。洋風の部屋って。そう思わない? 紅蘭?」
由里が紅蘭に尋ねる。
紅蘭は自分のベッドに腰掛けて、あたりを物色している由里を眺めていた。
「うちは神戸に住んでたときは、イギリスから来た人の家に厄介になってたさかい、自分の部屋も洋間やったんですわ」
それを聞くと由里がうらやましそうに言った。
「ほんとなの? じゃ、本物の洋館に住んでたのね?」
「まあ、そういうことになりますかいな」
「うらやましいぃ! わたしもそんな家に住んでみたい」
由里が手を握り合わせて、あこがれの表情をする。
「綺麗な白い建物、夕日が見えるテラス。パーティーなんか開いて、素敵なドレスを着て……。いいわよねえ」
由里は一人で想像に浸っている。
「うちの住んでいた家ではパーティーなんてありませんでしたわ。それにうちはいつもこんなチャイナドレス着てたし」
紅蘭の言葉に由里が正気に戻った。
「あらそうなの? でもパーティーはなかっても、おしゃれな服を着て、蓄音盤を聞きながらお茶を片手に午後のひとときを過ごす、ってのもいいじゃない」
由里の言葉を聞いて、紅蘭がちょっと笑った。
「確かに蓄音機はあったけど、うちがいつも分解してたさかい、ちゃんと音がなるときはあんまりなかったかな。最後に爆発してしもたし」
由里がきょとんとした顔をした。
「爆発? なんで蓄音機が爆発するの?」
紅蘭は返事に困ってしまった。
「そ、それはやな、うちが改造して……。えーと、変な事聞かんといてえな。うち、恥ずかしいやんか」
紅蘭は言ったが、由里にはやはり意味がわからない。
「……? よくわからないけど、とにかく紅蘭はイギリス風の生活の経験があるって訳ね。じゃ、素敵な洋服もいっぱい持ってるの? 見せてよ、見せてよ!」
由里は紅蘭が返事もしていないのに、急き込んでいる。紅蘭は苦笑しながら言った。
「だから、うちはいつもこのチャイナドレスやったさかい、別に洋服は持ってませんねん」
由里が残念そうな顔になった。
「そうなのぉ。でもそのチャイナドレスも素敵よねえ。横のスリットがセクシーだし」
「セ、セクシー? うちがかいな?」
紅蘭は驚いた。しかし由里は紅蘭の驚きなど気にしていない。
「ねえねえ。わたし、帝都に出てくるのにいっぱい服持ってきたのよ。見てくれる?」
由里が自分の大きなケースを引っ張り出してきた。さっきは持っていなかったから、直接、ここへ配達させたのだろう。
「ほら、見て!」
由里が紅蘭に見えるようにケースの蓋を開けた。紅蘭が覗きこむ。
「わあ。由里はん、えらいたくさん服持ってはるやんか。うちにはよう分からんけど、由里はんは美人やし、きっとよう似合うんやろうなあ」
中を見て紅蘭が驚いた。しかしうっかり約束を破って「由里はん」と呼んでしまった。
「ありがとう、紅蘭。でも、『由里』って呼ぶ約束でしょう?」
紅蘭がバツの悪い顔をした。
「そうやった、そうやった。どうも呼びなれへんさかい堪忍してや、由里」
「そうそう。それでいいの」
由里がその服の一つを取り出すと、自分の胸にあてた。
「これがわたしの一番のお気に入りなの! どう?」
紅蘭は感嘆の表情になった。
「ほんま、素敵やわあ! 由里はモデルにでもなれるんちゃうやろか」
由里が笑う。
「そう? わたしも流行雑誌のグラビア見て、こんなふうになれたらいいなあ、って思う事はあるわね。でも、モデルになるってそんな簡単なことじゃないのよ」
由里が人差し指を紅蘭の顔の前で振りながら言った。
「そうやのん? うち、あんまりそんなこと知らへんさかい」
「わたし、モデルじゃなくって、『キャリアウーマン』っていうのに憧れているの。流行のファッションを着こなして、社会の最先端で働いてみたいの! これがやっぱり一番かっこいいと思わない?」
「そ、そうやね」
またも由里の勢いに紅蘭はたじたじだ。
「ね、紅蘭も気に入ったのがあったら貸してあげるわよ。サイズも合うと思うから」
由里の申し出に紅蘭は驚いた。
「えっ!? そんな、こんな綺麗な服を借りるやなんて、そら、申し訳ないわ」
「いいじゃない。わたしが貸してあげるって言ってるんだから。で、休みの日は二人でおしゃれして、銀座にでも出かけましょうよ!」
由里は今にも出かけたそうな口ぶりだ。
「そやけど、うち、由里みたいに美人やないし。きっと似合わへんわ」
紅蘭が困ったように言う。
「なに言ってるのよ。紅蘭だってかわいいわよ」
由里が紅蘭の顔を覗きこんだ。
「そうねえ……。ちょっとこの眼鏡を取ってみて」
言うなり由里が紅蘭の眼鏡に手を伸ばした。
「あ、あかんて、由里はん! ちごた。由里!」
紅蘭は抵抗したが由里の方が速かった。眼鏡は紅蘭の顔から離れ、由里の手に握られてしまった。
不意を突かれた紅蘭が、さえぎるものがなくなったその目をパチパチさせて由里を見た。
「やっぱり! 眼鏡を取ったほうがもっとかわいいわ!」
由里がうれしそうな声を上げたが、紅蘭は見にくそうに目を細めてしまった。
「あかんて。うち、眼鏡がなかったらなんにもでけへんねんから」
「そうなの……?」
由里は残念そうに眼鏡を返した。紅蘭はそれを受け取ると慌ててかける。
しかし由里はまだあきらめていないようだ。
「じゃ、眼鏡は仕方がないとして、他のところでチャームアップしましょ!」
由里がまた紅蘭の顔を覗きこむ。
「うーん。そばかすはファウンデーションで隠せばいいわね……。あとは髪型かしら?」
由里が今度は紅蘭のお下げ髪に手を伸ばした。
「このお下げ、ほどいちゃっていいかしら?」
由里が尋ねる。
「かまわへんけど、また編むんが大変やねん」
「わたしが編んであげるわ。だからほどいちゃうわよ」
由里は紅蘭に後ろを向かせると、二つに編んだ髪の毛をほどき始めた。
しばらくすると、紅蘭の髪の毛が自由になって頭の後ろで広がった。
由里は手の平を合わせてよろこんだ。
「ほら! やっぱりこのほうがいいわ。じゃ、くしをかけてみるわね!」
しかし癖のある紅蘭の髪の毛は、なかなか由里の言うことを気かなった。それどころかくしを通すのもままならない。髪の毛がくしに引っかかって引っ張られるので、紅蘭が悲鳴を上げた。
「い、痛い、痛い!」
「ご、ごめんなさい!」
慌てて由里が髪をとくのをやめた。
「由里。もうええで。うちは今のままが気に入ってるんやさかい」
由里が残念そうな顔になった。
「うーん。紅蘭がそういうんなら仕方がないわね……。確かに今のままでもかわいいんだし、なんと言っても紅蘭はまだ十代なんだから、慌てなくてもいいか……」
由里の言葉は自分に言い聞かせているようだった。
「ごめんね、紅蘭。無理にこんなことしちゃって。悪気はなかったのよ。由里は紅蘭にもおしゃれをしてもらいたかっただけなの」
ほどいた髪をまた編みながら、由里は申し訳なさそうに言った。しかし別に紅蘭は怒ってはいなかった。
「気にせんでええよ、由里」
紅蘭は少し口を閉ざした。しばらく迷っている様子だったが、また紅蘭は話し始めた。
「ほんとはな、由里。うち、今まで自分でおしゃしようとか綺麗になろうとか考えた事なかってん。もっとほかにやりたいことがあったから、自分が女の子やということすら、あんまり気にもせんかった」
由里が紅蘭の言葉に手を止めた。しかし紅蘭は言葉を続けた。
「でも、今、由里が一生懸命、うちのことかもうてくれるの見て、うちもちょっとおしゃれしてもええかな、と思えてきたわ。そうや。うちも女の子やったんや」
それを聞いて由里は微笑んだ。うれしそうな笑顔だ。
由里は後ろから紅蘭に話しかけた。
「ねえ、紅蘭。きっと紅蘭にも、今に素敵な男性が現れるときが来るわよ。だから、そのときはまた由里にアドバイスさせてね!」
「えっ!?」
思いがけない由里の言葉に紅蘭は驚いた。しかし由里は笑ったままだ。
「そういうことにかけては私のほうが経験豊富なんだから、きっと役に立ってみせるわよ」
「け、経験豊富……?」
紅蘭は呆然としている。
「はい、終わり!」
髪を編み終わった由里がポンと背中を叩いたので、紅蘭は我に返った。
紅蘭が振り向くと、由里が姉のような笑みをうかべて紅蘭を見つめていた。
翌日から「研修」が始まった。
最初の日の午前中は講義のようなものだった。帝国華撃団花やしき支部の中にある小さな会議室の一つでそれは行われた。生徒は紅蘭と由里の二人だけ。講師は支部長の藤枝あやめである。そして最初の日の講義の内容は帝撃の組織概要であった。
といっても、それは帝撃のメンバーなら誰もが知っている程度のものに限られた。各部隊、つまり花組、風組、月組、夢組、雪組といった中核の組織についてはほとんど触れることはなかった。
「たとえ帝撃のメンバーであっても、これらの部隊の詳細が知れわたることは好ましくないからなの」
とあやめは二人に説明した。帝撃はまさしく秘密部隊なのだ。
まだ高等教育がそんなに一般的でなかった時代である。由里は女学校を卒業していたが、紅蘭は小学校すらも通ったことがなかった。だから、こういう講義は目新しくもあった反面、退屈で我慢のいるものでもあった。
しかも昨晩遅くまで二人は話し込んでしまい、そのせいで眠気をこらえるのが大変だったのだ。紅蘭は一度睡魔に負けてしまい、ゴンという音とともに頭を机に打ちつけた。その音にあやめは驚いた顔をし、由里は慌てて紅蘭の足を蹴飛ばした。足の痛みに目が覚めた紅蘭ではあったが、すぐにまた睡魔に負けそうになる。
そんなこんなで午前中は終わった。午後は実技ということだった。実技と言っても日によって内容は違い、スポーツの時もあれば戦闘訓練のときもあり、機械類の操作の練習のときもあるという。その日は二人の体力測定から始まった。
花やしき支部の中には隊員たちのための簡単なジムも設置されていた。といってもこの支部は人数が多いので、銀座本部の地下ジムよりははるかに広い。帝撃には運動に関する優れた研究家がおり、科学的に肉体を鍛錬できるシステムが出来あがっていたのだ。
紅蘭と由里はそのジムでいろいろな項目をテストされた。
基本的に紅蘭は運動はあまり好きではなかった。自分で運動神経が鈍いと思いこんでいたし、時間があれば機械をいじっていたかった。対して由里は女学校ではそこそこのスポーツ少女であり、当時日本に入ってきて間もないバレーボールの選手でもあったのだ。
そのため、由里はだいたいが良い成績だったが、紅蘭はほとんどの項目が平均より低かった。机に向かって工具を握っていることが多い紅蘭は、やはり体力的には劣っていたのである。なんとか人並み以上だったのは握力と背筋力だけで、これは農家で暮らしていたときのおかげだろう。井戸の水を運ぶのは紅蘭の仕事だったからだ。
その日が終わると、紅蘭は随分落ちこんだ気分になってしまった。
午前中の講義では居眠りはしてしまうし、午後からは自分の体力の無さを思い知らされたのである。おまけに体力測定のあとには一通りのトレーニングをやらされ、体もくたくたになってしまった。初日からこれでは、先が思いやられるというものだ。
明日からの毎日。
夜更かしさえしなければ講義で居眠りする事はないだろう。でも紅蘭は夜は趣味の発明がしたかったし、そうなると眠るのが遅くなってしまうのは必然である。それに講義となると学校へ行っていない紅蘭は、由里に比べて苦労するのが目に見えていた。
しかしまだ午前はいい。午後の実技がもっと憂鬱である。戦闘訓練なんてどんなことをさせられるのか見当もつかない。しかも紅蘭は花組への配属が決まっているのだ。花組とは直接戦闘を行う部隊だと聞いている。きっと訓練もぞっとするような厳しいものだろう。
寮へと帰ると、紅蘭は自分のベッドへと突っ伏した。いろいろな思いが浮かんでは消える。
(うち、これから帝撃でやっていけるんやろか……。学校にも行ってないからみんなが知っているようなこともうちは知らん。人並みの体力もあれへん。目も悪いし……)
そこまで考えたとき、また紅蘭に睡魔がやってきた。
(由里はええなあ。女学校まで出て、運動も出来る。それに比べてうちは……、うちには……、なんの……、取り柄も、……ない……)
そこまで考えると紅蘭は眠りに落ちた。
なんやらコトコトと物音がするので、紅蘭は目を覚ました。もう外は暗くなっている。
音は隣のキッチンから聞こえているようだ。紅蘭はベッドから起き上がると、キッチンを覗いた。
「あ、起こしちゃったわね。ごめんね、紅蘭」
エプロンをした由里が振りかえった。ガスコンロには鍋がかかっており、何か香辛料の匂いがする。テーブルの上では蒸気釜から白い湯気が噴き出していた。ご飯を炊いているのだろう。
「もうちょっとで晩御飯が出来るから、待っててね」
由里が笑った。
「昨日は外で食べたけど、今日は材料を買ってきたの。わたしね、前から洋風のキッチンを使いたくって仕方なかったのよ。といっても使いたかっただけで、大した料理は出来ないんだけど、今日発売の流行雑誌に作り方が載ってたから、それ見ながらやってるの」
由里が雑誌を見せた。
「カレーライス、っていうのよ。紅蘭は食べた事ある?」
紅蘭は由里の顔と雑誌を交互に眺めていた。
すると不意にその目から大粒の涙がこぼれ落ちてきたのだ。
紅蘭は慌てて手の甲でぬぐったが、それがかえって引き金になってしまった。涙があとからあとから溢れて出てきて止まらない。
突然のことに由里は驚いた。
「こ、紅蘭、どうしたの!? あっ、ごめん! カレーライスが嫌いだったのね? って、そんなことじゃないわね。何かわたし、紅蘭の気に触るようなこと言ったかしら!? ね、紅蘭!?」
由里はすっかり慌てて混乱してしまっている。
紅蘭は両手で顔を隠すと由里に背を向けた。腕で何度も顔をぬぐっている。その肩に後ろから由里が手をかけた。
「ね、紅蘭……。お願い。何があったのか教えてちょうだい。わたし、何か悪かったの?」
紅蘭は腕で顔をぬぐうのをやめると、やっと声を出した。しかしまだ向こうを向いたままだ。
「由里……。すんまへん。由里のせいやないねん」
由里が紅蘭の肩に顔を寄せた。紅蘭は泣きじゃくりながら話している。
「うちは何もでけへんしょうむない人間なんや。学校も行ってへん。運動もでけへん。帝撃に入ってもきっと役立たずや! でも由里はちゃんと学校も出て、運動も出来る。それだけでもうらやましいのに、そんな料理まで作れる。そんなこと考えたら、うち……、うち……、なんか涙が止まらへんようになって……。ごめん、由里。悪いんはうちやねん。由里のせいやない。うちが能無しなんが悪いんや!」
一気にしゃべると、紅蘭はうつむいたまま黙り込んだ。
由里は紅蘭の両肩に手を添えると振り向かせた。紅蘭は下を向いたままだ。
「ねえ、紅蘭……。わたし、紅蘭がどんな子供時代を過ごしてきたのかは知らないわ。きっとそれは私には考えられないくらいつらい毎日だったのでしょうね。だからわたしは紅蘭の過去については何も聞かないつもり。でも……」
紅蘭は少し顔を上げると由里を見た。由里もまっすぐに紅蘭を見つめた。
「でもね、紅蘭。学校に行かなかったからとか、運動が出来ないからとかでその人の全てが決まってしまうものかしら? 紅蘭は十五年間、精一杯生きてきたんでしょう? つらい毎日にも負けないで今まで生きてきたのよね。そんなに強く立派な紅蘭が、役立たずだとか能無しだなんて私には思えない!」
「由里……」
紅蘭の瞳が眼鏡越しに由里の瞳を見つめかえした。
由里は紅蘭の肩から手を離した。
「あやめさんから聞いたんだけど、紅蘭って発明が得意なんですってね?」
「そんな、得意やなんて。うちはものを作るんが好きなだけや……」
由里はうなずく。
「それでいいじゃない。好きなことがあるのなら、それに一生懸命になればいいじゃない! 一つや二つ、苦手なことがあったとしても、それに負けないくらいガンバッテみせればいいじゃない! そうでしょ? 紅蘭!?」
紅蘭がにハッした表情になった。
「そうやな……、由里……。学校へ行ってなくても……、運動が出来んでも……、うちに出来る事を、うちが頑張れることをしっかりやればいいんやな……」
「そうよ、紅蘭!」
紅蘭が恥ずかしそうな顔をした。
「……うち、今日はどうかしてたんや。もうこんなことにはならへん。由里に約束する」
由里が微笑んだ。紅蘭も明るい顔になった。
「ほんまにありがとう、由里……。うちを励ましてくれて……」
由里が突然照れた表情になった。
「ほんとはね、あやめさんだったのよ」
「え?」
由里の言葉に紅蘭は聞き返した。
「今日の午後のトレーニングが終わったあと、わたし、あやめさんに呼ばれたでしょう? あの時にあやめさんに言われたの。紅蘭が体力測定のことを気にしているみたいだから励ましてあげて、って」
「あやめさんが……?」
「ええ。でもわたし、どうしたらいいのか分からなくて、せめてお腹いっぱい食べたら元気になってくれるかな、と思って、カレーライスを作ろうとしてたの。ほんと、気が利かないわね、わたしって」
由里が肩をすくめた。
「由里……」
紅蘭はまた目頭が熱くなった。
そのとき、なにか焦げ臭いにおいがしてきた。由里が叫び声を上げた。
「あっ! 鍋を火にかけっぱなしだったわ! 大変!!」
由里は慌ててガスコンロに飛んでいくと火をゆるめ、鍋の中身をかきまわし始めた。
振り向くと由里が言った。
「もうすぐできるから、紅蘭は向こうで待っていてね。わたしが持っていくまで覗いちゃだめよ」
「う、うん」
やっとのことでそれだけ言うと紅蘭はキッチンを出ていった。
由里が出てくるのを待っている間、紅蘭は安らかな気持ちになった自分に気づいていた。さっきまでの落ちこんだ気持ちが嘘のようだった。キッチンから聞こえてくる食器の触れる音や、由里の足音がなんとも言えない心地よい子守唄のように聞こえてきた。
やがて由里がお皿を二つお盆にのせて出てきた。一つを紅蘭の前に置くと向かいに座る。
「やっぱりちょっと焦げちゃったの。なるべく焦げてないところを取ったんだけど、もし変な味がしたらごめんね」
由里が申し訳なさそうな顔をする。
紅蘭は生まれて初めてカレーライスというものを見た。なんとも言えない刺激的な香りがする。中華料理とはまた違った香辛料の香りだ。
「うわあ。おいしそうやわあ! これがカレーライスやのん?」
由里が尋ねた。
「紅蘭はカレーライスは初めてなの? 神戸ではイギリスの人と住んでいたんでしょ?」
「それが初めてやねん。神戸で世話になってた人は、大の日本料理好きやったさかい、うちもいつも日本料理ばかりでしてん」
それを聞くと、由里は微笑んだ。
「じゃ、そろそろ食べましょうか」
二人は目を合わせると、練習でもしたように同時に言った。
「いっただきまーす!」
やはりそのカレーは少し焦げた味がした。しかしそのカレーの辛さは紅蘭の心には程よい刺激となった。
お腹が暖かくなるのと一緒に、心も暖かくなるように紅蘭は感じた。ほかほかと体も心も暖まり、なんとも言えない幸福な気持ちに包まれた。
由里。そしてあやめさん。紅蘭のことを心配してくれる人がいる。それだけで紅蘭は安心できた。この帝撃で自分も何か出来るという気持ちが沸いてきた。
「明日こそは、うちもがんばるで!」
紅蘭は心の中で叫んだ。いや、そのつもりだったのだが、うっかり口に出てしまっていたらしい。
紅蘭は慌てて照れ隠しにカレーを口に突っ込んだ。しかし由里は微笑んだだけで何も言わなかった。
二日目の午前は、帝撃についてではなく普通の学校で行われるような内容になった。
講師役の藤枝あやめは二人に言った。
「これからは女性にも教養は必要よ。もちろん帝撃での職務をしっかりこなすためにも重要だけど、あなたたちがこれからの帝都や日本、いえ、世界で役に立つ人間になるためには、きちんとした教育を受けておいても損ではないわ」
あやめは一見古風な女性に見えるが、女性の社会進出に対して積極的な支持者だった。
対降魔迎撃部隊・花組が女性ばかりで構成されていたことも、あやめは大きく意識していただろう。あやめがもともと所属している帝国陸軍では、女性ばかりの戦闘部隊など認められるはずはなかったからだ。
あとで紅蘭が聞いたところによると、このようにきちんとした研修を受けたのは花組の中でも紅蘭だけだったそうだ。それはこの花やしき支部の支部長があやめだったことに関係している。最初から銀座本部に配属された者たちは、司令長官である米田の管轄に入ることになっていたのだ。
米田は別に女性を蔑視していたわけではない。彼は帝国陸軍の中でも屈指の戦略家であり、気骨のある軍人ではあるが、進歩的な考えの持ち主だった。もし米田が他の陸軍将軍たちのように伝統のみを重んじるような人物であったなら、帝国華撃団を創設するどころか鼻にもかけなかったに違いない。それどころか、米田は部下として集められた花組の少女たちを、娘のように気にかけて愛しく思っていたのはもちろん、彼女たちの力を本当に信じていたのだ。
ただ米田はあやめと考え方が違っていただけだ。米田は、これからの生活の中で少しずついろいろな知識や教養を身につけていってくれればいいと考えていた。なんといっても彼女たちはまだ若かったのである。
それに対してあやめには幾らかの焦りがあったかもしれない。紅蘭にしても由里にしても、いずれは花やしき支部を出て銀座本部へと配属されるであろう。あやめが二人にこうして接していられる時間は限られるのだ。この短い間にあやめは与えられるものは全て紅蘭と由里に教えたいと思っていた。
結局、紅蘭はしばらく後まで花やしき支部に残り、やがてあやめ自身も銀座本部へと移ることになるのだが、この時点では未定の事項だった。
あやめの講義は実に見事だった。それはあやめ自身が高い教養を持っていることを示していたが、それだけではなかった。あやめは高等な話術をも心得ていたのである。この話術が世界中から花組のメンバーを集める上で役に立ったのは言うまでもない。
講義が進むにつれて、紅蘭は自分が心配していたことがまったく的外れだったと分かってきた。あやめの話すことは、学校に通ったことのない紅蘭にも楽に理解できたし、知識として吸収できた。
紅蘭は、由里が退屈しているのではないかと思い、ふと横を見たが、由里は目を輝かせてあやめの話に聞き入っていた。
午前が終わり昼休みになった。支部の食堂で二人は昼食を取った。
由里がスープを口に運ぶのをやめると、紅蘭を見て微笑んだ。そして言った。
「ねっ、あやめさんのお話、分かりやすくっておもしろかったわね!」
紅蘭も微笑んだ。でもそれは少し苦笑を含んでいたようだ。
「ほんまに、うちでもよう分かる話しやったわ。心配してたのが馬鹿みたいや」
すると由里の表情は微笑みから満面の笑みになった。
「わたし、勉強が楽しいなんて思ったの、生まれて初めてなの」
「そうやのん? うちは学校っていうとこは知らんけど、おもしろなかったん?」
紅蘭は不思議に思って聞いた。紅蘭にとって学校は憧れの場所だったからだ。
「うーん。まあ、おもしろいときもあったけど、だいたいはつまらなかったわねえ。でも勉強がつまらなかったんじゃなくて、先生の教え方や学校のやり方が面白くなかったってことね。しょっちゅう試験ばかりでさ」
そこで突然由里は口調を変えるとスプーンで紅蘭を指差した。
「榊原さん。こんな点数では立派な乙女にはなれませんことよ!」
紅蘭は驚いた。
「な、なんやのん、それ?」
由里は紅蘭の前からスプーンを引っ込めると、今度はそれを振りながら口をとがらせた。
「わたしの担任の先生の口ぐせ。同じ事、何回言われたか分からないわ」
「た、大変やったんやね」
紅蘭は苦笑いした。由里がまたしゃべりだす。
「わたし、小学校のころから算数が苦手だったのよねえ。それが最後まで尾を引いちゃった」
紅蘭は何も答えることが出来なかった。「算数」と言うのがどういうものか分からなかったからだ。
しかしそれだけ言ってしまうと由里は満足したのか、それとも紅蘭の気持ちに気づいたのか、スプーンを皿に戻すとまた食べ始めた。紅蘭はちょっとの間由里を見つめていたが、すぐに自分もスプーンを動かし始めた。
紅蘭が「算数」というものを知ったのは、なんとその翌日だった。つまり午前の講義が算数だったのである。
紅蘭はすぐに気づいた。
(なあんや。これが算数なんか)
実は紅蘭は神戸にいる間、保護者だったパーシー・ホワードに数学を習っていたのである。しかも、紅蘭は覚えが早かったので、最後にはその内容は大学レベルにまで達していたのだった。
紅蘭にとって、あやめが教える内容はまったく周知の事ばかりだった。
あやめは時たま二人に質問をし、答えを尋ねた。二人が理解しているのを確認すると、どんどん先のレベルへと進んでいく。
難しい三角関数の問題を紅蘭がなんなく解くのを認めると、あやめは微笑んでうなずいた。
「ホワードの言ったとおり、大したものね。じゃ、紅蘭。これはどうかしら?」
今度はあやめは微分方程式の問題を出した。これも紅蘭はすらすらと解いて見せた。
「よろしい!」
あやめはうなずくと、紅蘭に近寄って言った。
「紅蘭。あたなたに私が教えられることはないみたいね。紅蘭には、大学の先生にでも来てもらおうかしら?」
あやめの言葉に紅蘭はびっくりした。
「そ、そんな、うちに教えることがないやなんて。うちはパーシーはんに教えてもろただけですねんけど……」
あやめは微笑んだ。
「謙遜することはないわ。あなたの数学の知識は帝国大学の学生なみなんだから」
あやめの言う事は紅蘭にはよく分からなかった。紅蘭は数学は好きだったので、もっと教えてもらいたかったのだ。
しかし、その紅蘭の横で目を丸くしている人物がいた。もちろん由里である。
由里はすでに三角関数に入ったところからチンプンカンプンになっていた。確かに習ったような記憶はある。でも理解できなかったまま、ほっておいたのだろう。女学校では数学や理科は重要な科目ではなかったのだ。
算数でさえ苦手であった由里である。横にいる紅蘭が大学生並の知識があると言われたりすれば、泡を吹きそうになっても仕方がないだろう。
そのあとの講義は、予想通り由里一人のものになってしまった。
始まったときからしかめっ面だった由里の顔は、ますます惨めなものになった。もう何を聞かれてもしどろもどろである。
そんな由里を紅蘭は複雑な気持ちで見ていた。あんなにお姉さんぽく見えていた由里が、まるで母親にしかられる娘のように小さくなっている。
(なんでもできると思てた由里にも苦手なものはあるんやな。由里には悪いけど、なんやうち、ちょっとだけ安心したわ)
紅蘭の視線に気づいたのだろう、由里が声を上げた。
「ちょっと、紅蘭! そんな目で見てないで、助けてよ!」
自分の気持ちを見透かされたようで紅蘭は慌てた。
「えええっと……、それはやな……」
紅蘭が由里に教えようとすると、あやめが横から止めた。
「由里。まずは自分で考えなさい」
「はあい」
由里は首をすくめると、また下を向いて頭を抱えた。
由里の受難は午前だけで終わらず、この日の夕方まで続いた。
花やしき支部にはいろいろな部門がある。まだ未完成の部分も多かったが、一番大きなスペースを占めていたのが「花やしき工房」と呼ばれる地下工場だ。
そして午後の実技は、なんと機械の動かし方だった。二人はそこに置いてあった作業用の人型蒸気を動かす練習をしたのだ。
人型蒸気とは、人間の形をした蒸気の機械である。もともとはアメリカで軍用として発達したものだが、力仕事を行うのにも都合がいいので、この花やしき支部でも何体かの人型蒸気が作業用として使われていた。
まずあやめが見本を見せた。といっても、手前にある木箱を持ち上げて向こうへ運び、それを積み上げるだけである。あやめはなんなくやって見せたので、二人には簡単なことに見えた。
まずは由里がやってみることになった。上から乗りこむとレバーを握る。
由里の乗った人型蒸気はおもむろに立ち上がった。そこまではよかった。しかし、歩かせようとするとこれがうまく行かない。バランスを取るのが難しいのか、一歩前に出ては一歩戻りと全然前に進まない。
やっとのことで木箱の前まで来た。今度は前かがみになってこれを持ち上げるのである。しかし由里がレバーを前に押したとたん、人型蒸気は勢いよく前につんのめった。
「きゃっ!」
突然のことに由里は放り出され、転がりながら床に落ちた。それがあまりに勢い良かったので、紅蘭もびっくりして身をすくめてしまった。
「痛ぁい!」
ぶつけた腰をさすりながら由里が立ちあがった。
「あらあら。由里。レバーはもうちょっと細かく丁寧に操作しないとダメよ」
あやめの表情も少し笑いを含んでいる。
「じゃ、次は紅蘭がやってみせて」
今度は紅蘭が人型蒸気に乗った。レバーを握ると立ち上がらせる。
「紅蘭。気をつけてね」
由里が紅蘭に注意する。しかし紅蘭はなんでもないという顔をしていた。
やはり歩行は簡単にはいかなかった。しかし紅蘭はすぐに慣れた。木箱の前まで来ると、慎重にレバーを操作して前かがみになる。そのまま機械の腕で掴むと、今度はそっと持ち上げた。
ここから運ぶのがまた難しい。重量物を掴んでいるのでバランスがさっきと変わっているのである。
しかし紅蘭は倒れることもなく運んで見せた。無事に運ぶと、巧みな操作で木箱を積み上げる。
「よろしい。なかなかのものだわ」
あやめの表情は満足そうだ。
由里はまたもや目を丸くしていた。
「ええっ!? なんでそんなに簡単に出来ちゃうのぉ?」
紅蘭は人型蒸気を降りながら言った。
「実は神戸で世話になってたパーシーはんは人型蒸気の専門家やったんですわ。だからうちも何度か乗ったことがありますねん」
それを聞くと由里が大きな声を出した。
「ずるいわよ、紅蘭! そんなこと、一言も言わなかったじゃない!」
由里の声があまりに大きかったので、紅蘭はドキッとした。
「ごめんごめん、由里。別に隠してたわけやないねん。うちには人型蒸気は別に珍しいもんやなかったもんやから」
紅蘭はバツの悪そうな顔をすると頭を掻いた。
(あちゃあ。算数に続いてまた由里に悪いことしてしもたかなあ……)
紅蘭はちょっと由里に悪い気持ちになった。それは昨日までなら思いもしないことだったろう。
「じゃ、由里。もう一回やって見せて」
あやめが言う。
由里は今度は無事に木箱を持ち上げた。しかし向きを変えて歩こうとしたとたん、今度は仰向けにひっくり返った。木箱の蓋が開くと中から炭がこぼれ落ちた。放り出された由里は頭からそれをかっぶってしまった。
「ん、もう! なんでこうなるのよ!」
由里が顔を炭で真っ黒にして叫んだ。
「あらあら。別の木箱にしたほうがよかったかしら」
あやめがタオルを差し出しながら言う。それを見て紅蘭は思わず笑ってしまった。すると由里が目ざとく見咎めた。
「あ、笑ったわね。紅蘭! あとで覚えていらっしゃい!」
紅蘭は慌てて口を抑えた。
由里は受け取ったタオルで顔を拭くと、紅蘭を睨んた。
廊下の途中でやっと紅蘭は由里に追いついた。
「ゆ、由里。ちょっと待ってえな」
紅蘭は声をかけたが、由里は黙ってさっさと歩いていく。由里の唇はぎゅっと結ばれ、目は前を見据えたままだ。肩をいからせて大きく振りながらあるいているので、紅蘭は横に並ぶことができない。
由里は階段を上り始めた。階段を上がるともう出口である。
花やしき支部の入り口は、花やしきの遊園地事務所の中にあった。だから紅蘭や由里も表向きは遊園地の職員のような振りをして出入りしている。
玄関の女子事務員が二人に挨拶をしたが、由里は黙って通りすぎた。その態度に女子事務員がきょとんとした顔をする。紅蘭はばつが悪そうに愛想笑いを浮かべて通りすぎた。
由里は遊園地の門をくぐると、とっとと先に歩いていく。
そんな由里の態度に紅蘭は困り果ててしまった。
(やっぱり由里の失敗をわろたんが悪かったんや。うちはなんて失礼なやつなんやろ。どう言うて謝ったらええやろか……)
紅蘭は早足で由里に追いつくと、横から由里に話しかけた。
「なあ、由里。ごめんやで。わろうたりして」
由里はちらっと横目で紅蘭を見た。しかしまた前を向くと、さらに早足で歩き出した。
紅蘭はあとをついてゆきながら、由里の背中に話しかけた。
「うち、悪気があったわけやないねん。その……、なんていうか、何でもできると思てた由里にも苦手なもんがあるんやと思ってそれで……。いや、なんて言うか、ええっと……」
不意に由里が立ち止まった。突然だったので、紅蘭は由里の背中に顔をぶち当ててしまった。
由里が振り返ると言った。
「ええ、ええ。そうですよっ! わたしにだって苦手なことぐらいあるんだから。別に笑わなくたっていいじゃない!」
紅蘭はうつむいてしまった。
「ごめん。ほんまにごめんやで、由里。うちが学校行ってへんかっても、運動が苦手やっても、由里は笑わへんかった……。笑わへんどころか、うちを励ましてくれた。それやのに、うちは……」
由里はちょっと表情を和らげると紅蘭の顔を覗いた。しかし紅蘭はうつむいたまだ。
「うちはちょっと得意なことが見つかっただけで、なんやうれしい気持ちになってしもて……。そやから、由里にも嫌なことがあるやなんて気づかへんかった……。うちはほんまにアホやねん……」
それだけ言うと、紅蘭は黙ってしまった。
「ふむ……」
由里は紅蘭を覗きこんでいた顔を上げると、両手を腰にあてて言った。
「得意なことが見つかって、うれしい気持ちになった、……か。まあ、それはいい傾向だわね」
「え?」
紅蘭は顔を上げて由里を見た。驚いたことに由里は少し笑っていた。
「確かに今日の紅蘭は昨日までと違って生き生きとしていたわね。やっぱり、わたしたちみたいなうら若き乙女はそうでないとね」
紅蘭はきょとんとしている。
「もういいわよ、紅蘭。わたし、そんなに怒ってはいないから」
紅蘭は驚いた。
「ほ、ほんまに?」
由里は男みたいなしぐさで手をあごにあてると空を斜めに見上げた。
「まあ、ちょっと不愉快は不愉快だけどね」
「ほんまに堪忍やで、由里」
紅蘭がまた申し訳なさそうな顔をする。
「不愉快なのは苦手なことが続いたせいよ。誰だって一日中苦手なことばかりさせられたら不機嫌になるでしょう? でもそれを人にやつあたりして、せっかくの友達を失うほどおろかじゃないのよ、わたしは」
由里が立てた人差し指を振りながら言う。どうやらそのしぐさは由里の癖らしい。
由里は前を向くと歩き出した。今度は紅蘭も横にならぶ。
由里が口を開いた。
「でも、やっぱりむしゃくしゃするのは精神衛生上よくないわね」
「というてもうちらは未成年やし、お酒を飲むわけにもいかんわね」
紅蘭は冗談で言った。しかし由里は叫んだ。
「それだ! わたし、もう二十歳なんだもん。飲んでもいいんだから! よーし。こうなったらやけ酒よ!」(注:数え年)
紅蘭は驚いた。
「えーっ!? 今のは冗談やで、冗談!」
しかし由里は近くのバーの看板を見つけると歩いていく。
「わ、わ、わ! ゆ、由里、はやまったらあかんって!」
紅蘭は慌てて腕をつかんで由里を引き止めた。すると由里は立ち止まり振りかえった。
「私も冗談よ!」
「な、なんや、冗談かいな」
紅蘭は胸をなでおろす。
二人は顔を見合わせると、一緒に笑い声を上げた。
「紅蘭も大げさねえ。『はやまる』って何よ?」
「そやかて、由里が『やけ酒や』、なんて言うから……」
由里はちょっと首をかしげた。
「うーん。だって冗談でも言わないと気がまぎれないもの」
紅蘭も同じように首をかしげる。
「そうやねえ。やっぱりなんかでストレス発散させたほうがええやろか」
突然、由里が手のひらを合わせると声を上げた。
「そうだ!」
紅蘭は驚いた。
「な、なんやのん!?」
「明日、休みでしょう? 買い物にでも出かけない? 気晴らしになるわよ!」
由里が勢い込んで言った。
「そ、そうやね。じゃ、どこへ行こか?」
由里はくるっと向こうを向くと空を見上げた。
「銀座! 銀座がいいわ。一度、行ってみたかったのよ!」
紅蘭も異存はなかった。
「銀座かあ。そうやね。銀座には米田はんもおるし、いっぺん、行ってみよか」
しかし由里は紅蘭の言葉は聞いていなかったようだ。一人でうれしそうに歩いていく。
「そうよ……。銀座……。あこがれの銀座……」
そんな由里の姿を見ていると、紅蘭もなんだか楽しい気分になってきた。
翌日は朝から大騒ぎだった。と言っても騒いでいたのは由里だけなのだが。
騒ぎの原因は、もちろんどの服を着ていくかということである。由里は自分の服を出してはあれこれと考えていた。
紅蘭はいつものチャイナドレスでは寒くなってきていたので、冬服を用意していた。やはり中国風のズボンと上着である。
由里は迷いに迷っていたが、やはりその騒ぎは紅蘭にも飛び火してきた。
「え? 紅蘭、その服で行くの?」
「そうやけど」
「ねえねえねえ。紅蘭にもわたしの服を貸してあげるから、一緒に選んでよ!」
「そんなん、うちはええって!」
そんなこんなで寮を出たのは昼前であった。由里はシックなスラックスに小粋なベレー帽をかぶっていた。紅蘭は結局自前の服である。
紅蘭は由里に聞いた。
「ところで、銀座にはどうやって行くつもりやのん?」
「そうねえ……。人力車かしら? 豪華に蒸気タクシーっていうのもいいわね」
由里はそう答えたが、実は紅蘭には考えがあったのだ。
紅蘭はおずおずと言った。
「なあ、由里。せっかくやから地下鉄で行けへん?」
「地下鉄?」
由里が聞き返した。
「最近出来たばかりなんやけど、浅草から銀座まで行けるんやて」
由里もうなずいた。
「あの『メトロ』って言うやつね?」
「そうや。ほんまはうち、いっぺん地下鉄に乗ってみたかってん」
紅蘭は本音を言った。でも由里もおもしろがった。
「いいじゃない! 地面の下を走る蒸気車だなんて、モダンよねえ。今日の出発にはふさわしいわ!」
由里が賛成したので二人は地下鉄の駅に向かって歩き出した。
地下鉄の駅は雷門をやり過ごし、隅田川にかかる吾妻橋の手前にあった。
階段を降りるとホームである。ガス灯のシャンデリアで照らされて、なんとも言えない雰囲気がある。
ホームでは結構な人が待っていた。やはり銀座へ行くのだろうか、豪華な和服を着込んだ御婦人もいる。
しばらくすると地下鉄がホームに入ってきた。構内に蒸気がただよう。乗客が乗ると走り出した。
紅蘭と由里はつり革を握っていた。由里が口を開いた。
「やっぱり地下鉄って、景色は見えないのね」
「そうやね。あたりまえやけど、ほんまにこうして乗ってみるまで気づかへんかったわ」
由里が車内を見回す。
「帝鉄だと周りを蒸気自動車や人力車が走っててにぎやかでしょう? 地下鉄だと外は真っ暗だからさみしいとも言えるけど、考えてみると絶好の乗り物よね!」
「絶好って、何がやのん?」
由里の言っていることが分からず紅蘭が聞き返した。
すると由里が紅蘭に顔を寄せて小声で言った。
「もちろん恋人と乗るには、よ!」
「こ、恋人!」
紅蘭が驚いて大声を上げた。周りの乗客がいっせいに二人を見る。
「ちょ、ちょっと紅蘭!」
由里が慌てて紅蘭の袖を引っ張った。
「ごめんごめん。あまりに驚いたさかいに」
「なに驚くことがあるのよ。紅蘭にだって今に素敵な人が現れるんだから!」
「す、素敵な人!」
また紅蘭が大声を上げた。また周りの乗客が二人を見る。二人の前に座っていた紳士がわざとらしく咳払いをした。
紅蘭が由里に小声で言った。
「由里。その話はまた今度にしよ」
「そのほうがよさそうね」
二人は肩をすくめると、銀座駅に着くまで黙ってすごした。
銀座駅は終点である。
乗客は全員降りてしまうと、階段を上っていく。紅蘭と由里も階段を上り始めた。
外が見えない地下のトンネルを蒸気鉄道で運ばれてきたのである。なのにこの階段を上がれば、もうそこは憧れの銀座の町並みなのだ。
なんだかうきうきとした気分になってくるのを二人は感じていた。階段を上る足もなんだか軽くなったように思える。
やがて外の景色が四角く見えてきた。
ついに地上へと出た。
そこは銀座四丁目の交差点であった。目の前を帝鉄の路面蒸気が通り過ぎる。
その次に二人の目に止まったのは、正面にあった大帝国劇場であった。といっても、まだ建築途中で周りには足場が組まれている。今日は休みなのだろう、誰も働いている様子はない。
「これが大帝国劇場かあ」
紅蘭がその建物を見上げると感歎の声を上げた。ヴィクトリア調の美しい建物であるのが足場越しにも伺えた。落成した暁にはさぞ立派な姿を見ることができるだろう。
「わたしたち、いずれここで働くことになるのね!」
由里が喜びの声を上げた。
紅蘭が由里をうながした。
「な、由里。米田はんに挨拶していこ」
「え? ええ」
二人は通りをわたると劇場の玄関についた。
「わたし、米田指令にはまだ会ったことないのよ」
由里が言った。
「そうやのん? うちは神戸にいたとき何度も会ってるねん。うちが世話になってたパーシーはんと米田はんは古い知り合いやったんやて」
紅蘭は言いながら玄関の扉に手をかけた。しかし扉は開かなかった。どうやら中からカギがかかっているらしい。
二人は玄関から離れると他の入り口を探した。左手に来賓用らしい入り口が見えたが、足場がふさいでいてまだ使えないようだった。
「誰もおれへんみたいやね。またあとにしよか?」
紅蘭が言う。
「そうね。じゃ、先に食事に行きましょうよ。ちょうどお昼もまわっちゃったし」
「どこかええ店知ってるのん?」
由里がハンドバッグから雑誌を取り出した。
「確かこの近くに『煉瓦亭』っていうおいしい洋食屋さんがあるはずなの。日本で初めての洋食屋さんなんだって」
由里が雑誌のページをめくった。
「あれだわ」
由里が指差した先には確かに「煉瓦亭」という看板のかかったお店があった。店先だけを見てもおしゃれな雰囲気がただよっている。
由里は紅蘭の手を引くとその洋食屋に入っていった。
テーブルに座ると、店員が注文を聞きに来た。
「何にする、紅蘭?」
由里が聞いた。
「うち、またカレーライスが食べたいな」
すると由里が慌てた。
「え、えっとね。確かこのお店はオムライスがおいしかったのよ。だからオムライスにしましょうよ。ね、ね、ね?」
紅蘭はけげんそうな顔をした。
「……? そやったら、最初からそういうたらええのに」
由里が店員に言う。
「じゃ、じゃあ、オムライス二つね」
店員が行ってしまうと、紅蘭が口を開いた。
「オムライスって、どんなもん?」
「え? さ、さあ……。流行雑誌に載っていたんだけど」
由里が答える。
紅蘭が隣の人が食べているカレーライスを見て言った。
「やっぱりうち、カレーライスが食べたかったな。由里に作ってもろたんが、なんや忘れられへんわ」
「そ、そう? ありがとう、紅蘭」
そうは言ったが、由里は内心慌てていた。こんな本格的なお店のカレーと比べられたりしたら、自分が作ったものが変な味だったことがわかってしまうと思ったからである。
でも、紅蘭はそんな由里の思いに気づくはずもなかった。
昼食が終わると、再び二人は劇場の入り口に戻った。
今度は玄関の大きな扉は開いていた。二人はおずおずと中に入った。
すると突然中から声がした。
「あ! 紅蘭だ!」
玄関ホールの横の階段を金髪の少女が駆け下りてきた。左手にはクマのぬいぐるみを抱いている。
「なんや、アイリスかいな。久しぶりやなあ。元気やった?」
紅蘭がその少女、アイリスに声をかけた。
「うん! アイリス、とっても元気だよ! ねえねえ! 紅蘭もこの劇場に来ることになったの?」
アイリスがはしゃぎながら聞いた。
「いや。うちはまだ花やしきや。こっちに来るんはまだずいぶん先になるやろな」
「えーっ。そうなのぉ。アイリスつまんなーい」
「なんや。えらい待ってくれてるんやなあ。うち、なんやうれしいわ」
小さなアイリスに紅蘭が照れた。
由里が紅蘭に尋ねた。
「ねえ、紅蘭。この子、誰?」
紅蘭はすっかり由里のことを忘れていた。慌てて紹介する。
「この子はアイリスいうんや。前に話したけど、うちが神戸から来たとき、この子の船に乗せてもろたんや」
由里が驚いた。
「へえーっ! 船を持ってるっていうお金持ちの女の子ってこの子なの!?」
するとアイリスが不思議そうな顔をして言った。
「アイリス、別にお金持ちじゃないよ。ね、ジャンポール」
アイリスが抱いていたクマのぬいぐるみに話し掛けた。
その天真爛漫な様子に紅蘭と由里は顔を見合わせると微笑んだ。
「ねえねえねえ。おねえちゃん誰? おねえちゃんも花組なの?」
アイリスが今度は由里に聞いた。
「わたし、榊原由里。わたしは花組じゃないけど、たぶんこの劇場には来ることになると思うわ。よろしくね、アイリス」
由里はアイリスに手を差し出した。アイリスがうれしそうにその手を握る。
「うん。こっちはクマのジャンポール。よろしくね!」
アイリスがぬいぐるみを差し出した。
「はいはい。よろしくね、ジャンポール」
由里はぬいぐるみにも握手をした。
「なあ、アイリス。米田はんはどこにおるんやろ?」
紅蘭が聞いた。
「米田のおじちゃんなら支配人室だと思うよ」
アイリスが答える。
「ほんならちょっとうちらを米田はんのところまで連れていってくれへんかいな」
「いいよ。こっちだよ」
言うと、アイリスは小走りに走っていく。
食堂を抜け、廊下の途中にある扉でアイリスが立ち止まった。
「この部屋だよ」
「アイリス、ありがとな。うちら、ちょっと米田はんに挨拶していくから」
「うん。アイリスもマリアに呼ばれてたんだ。もう行かなきゃ! じゃあ、またね! バイバーイ!」
アイリスは手を振ると走り去った。
「さてと」
紅蘭はおもむろにドアをノックした。すると中から声がした。
「だーれでい? はえんな」
なんか声の調子がおかしいので、二人は顔を見合わせた。
「なんや、米田はん。昼間っから飲んでるんちゃうやろか?」
紅蘭が由里に言う。するとまた声がした。
「なんだってぇ? ぶつくさ言ってねえで、はやく入れってんだよお!」
紅蘭が扉を開けた。正面の机に年配の男が座っている。帝国華撃団総司令、米田一基である。
米田が片手を上げて紅蘭に声をかけた。その手にはお猪口が握られている。
「いよおっ、紅蘭じゃあねえか! 今日はいったいどうしてい! ヒック!」
その様子を見て紅蘭があきれたように言った。
「米田はん。やっぱり飲んではるんかいな?」
「おう、劇場の支配人なんてよお、気楽な商売ときたもんだぁ」
赤い顔をして、その男、米田が答えた。
すると紅蘭の後ろにいた由里が大声で言った。
「帝国華撃団の指令長官がなんてこと言うんですか!」
米田は由里を見た。
「あん? おめえは誰でい? ここは劇場なんだぜい。司令長官なんてやつはよぉ、ここにはいねえんだよぉ。おれは支配人の米田だぁ、ヒック!」
「な、なんですって!」
由里の顔が真っ赤になった。
「ゆ、由里。ちょっと待ちって!」
米田に詰め寄ろうとする由里を紅蘭が止めた。
そんな由里を見ながら米田が言った。
「おめえさん、知ってるよ。榊原由里ってんだろ? 近いうちにここへ来て働いてもらうぜ。よろしくな。……おっと、もう酒が切れちまったぜ」
米田が徳利をさかさにして振った。
由里の顔がさらに赤くなった。紅蘭は慌てた。
「米田はん! 冗談はええかげんにせな、由里、本気にしてるやんか!」
紅蘭が言うと、米田の表情がちょっと変わった。
「あん? おれはいつものとおりだぜぇ」
米田は椅子から立ちあがると背中を向けた。
「おれたちはよぉ、帝国華撃団、秘密部隊なんだぜえ。だからよぉ、普段から気をつけなきゃいけねえ。気楽に人前でその秘密を話したりしちゃあいけねえんだ」
その米田の言葉の最後のほうは普通の口調になっていた。
米田が二人のほうを振り向いた。驚いたことにその表情はさっきまでとは違って引き締まり、厳しい軍人の表情、一人の将軍の顔になっていた。
米田のあまりの変化に由里は口をあけたまま呆然としている。
米田は言った。
「あやめくんとも話しているが、お前たち二人に我々は大変な期待を持っている。はやくこの銀座本部に来てくれることを願っているが、今はまだその時期ではない。あやめくんの下でしっかり訓練を積んできてくれたまえ」
「はい!」
紅蘭が元気良く答えた。由里も慌てて返事をする。
「わ、わかりました!」
二人の態度を見て米田もうなずいた。
「うむ。では、せっかく来てくれたんだしよぉ。かたっくるしい言葉はやめて、もっと気楽にやろうぜえ」
終わりの方はまたさっきまでの言葉づかいに戻ってしまっていた。表情もすっかり酒飲み親父へと戻っている。
「なんや、米田はん。全然変わってへんなあ。うち、なんや安心したわ」
紅蘭が笑い声を上げ、つられて由里も笑いだした。
二人は三十分ほど米田と話をすると支配人室を出た。
すると廊下に一人の背の高い女性が立っていた。プラチナブロンドの美しい髪をしており、黒いコートの上からでもそのスタイルの良さが分かった。しかしその表情にはあまり暖かさは感じられず、感情に乏しいように思える。
その女性が二人に話しかけた。どうやら二人を待っていたらしい。
「李紅蘭さんと榊原由里さんですね。私はマリア・タチバナ。花組の隊長です」
紅蘭と由里も名乗った。
「うちが李紅蘭です。紅蘭と呼び捨てにしてください」
「わたし、榊原由里です。よろしく」
マリアはうなずくと手を差し出した。二人は握手を交わした。
「アイリスからあなた方が来ていると聞いたので挨拶に来ました。私は今忙しくて案内は出来ませんが、劇場内は自由に見てもらって結構ですから」
「ほんなら勝手に見させてもらいますわ」
「……それでは、私はこれで」
頭を軽く下げるとマリアは立ち去った。
マリアが言ってしまうと、由里が言った。
「すごい美人だけど、なんだか少し冷たい感じのする人ね」
「まあ、初めて会ったばかりやし、まだなんとも言えんと思うけど」
紅蘭がそう言うと由里も同意した。
「それもそうよね」
紅蘭が由里をうながした。
「ほんなら、ちょっと劇場内を見学させてもらおか?」
「ええ」
二人は並んで廊下を歩き出した。
結局二人は大帝国劇場に一時間以上いた。
せっかく銀座に来たので、本当はぶらぶらしたり買い物をしたりするつもりだったのだが、もうあまり時間がない。それでも由里は楽しそうだった。
「とにかくちょっと通りを歩いてみましょうよ」
由里がはしゃいで、先に歩き出した。
銀座は過去の大火事のあと、煉瓦造りのモダンな洋風建築が建てられるようになった。帝都鉄道の路面蒸気が背の高い建物にはさまれた道路を走り、しだれ柳の街路樹が続く街並みは日本で最もモダンガールたちがあこがれる場所だったのである。
もちろん彼女たちのお目当ては高級な雰囲気が漂うデパートやお店での買い物であった。松坂屋の開店は太正十三年、三越百貨店の開店が太正十四年のことなので、紅蘭と由里が初めて訪れたときにはまだ出来ていなかったのだが、これから発展していくであろう街並みの息吹は十分に感じることが出来た。
初めて真珠を養殖し販売を始めたという御木本真珠店の前で由里は足を止めた。ショーウインドウをのぞきこむとため息をつく。
「きれいねえ」
「ほんまやなあ。こんないっぱい真珠があるやなんてなあ」
それでもまだ若い二人には手の出るものではない。しばらく眺めるとまた歩き出す。
通りには美しく飾り立てた洋服店や靴屋などが並んでいる。しかしそのどれもが二人には買えるような値段ではなかった。それでも二人はその一軒一軒のショーウインドウをのぞいてまわった。それだけで十分楽しかったのである。
やがて街並みは夕方の雰囲気を帯びてきた。はしゃいでいた二人もさすがに足が疲れてきた。
由里が言った。
「疲れちゃったわね。そろそろ帰りましょうか?」
「そうやね。もう夕方やし、暗くなる前に帰ろか」
二人はまた地下鉄で帰ることにした。
疲れているせいもあるのかも知れないが、つり革につかまった紅蘭には、真っ暗なトンネルを行く地下鉄が、行きと違ってなんとなくさびしく思えた。由里も同じような気持ちなのか黙ったままだ。
やがて浅草についた。二人はホームに降りると、階段を上り始めた。
地上に出た。すると途端に二人は賑やかな世界に引き戻されたことに気がついた。
夕方の浅草の町は活気に満ちていた。仲見世通りには大勢の人が行き交い、店の売り子の声が元気良く飛んでくる。二人もなんだかまた元気が出てくるように思えた。
由里が紅蘭に言った。
「ねえ、紅蘭。今日は夕食を外で食べましょうよ!」
「そうやね。どこで食べる?」
「やっぱり『ヨシカミ』よね! 安くておいしいって評判なのよ。食事のあとは『アンジェラス』でデザートはどう?」
「アンジェラス?」
紅蘭が聞き返した。
「カフェの名前よ。チョコのケーキがとってもおいしいんですって!」
由里が今にも食べたそうな表情をして言ったので、紅蘭が笑いだした。
「ほんならまず『ヨシカミ』へ行こか?」
洋食の「ヨシカミ」は浅草六区と花やしきの近くにあった。だから紅蘭もその店の前は何度も通ったことはあるのだが、入ったのはその日が初めてだった。
テーブルに座ると紅蘭は言った。
「うち、今度こそカレーライスが食べたいな」
するとまた由里が慌てた。
「ダ、ダメよ。ここはハヤシライスがおいしいんだから!」
「ハヤシライス? オムライスとまた違うのん?」
紅蘭が聞いた。
「ハヤシライスはもともとは『ハッシュドビーフ』っていう料理から出来たんですって。『ハッシュ』がなまって『ハヤシ』と言われるようになったそうよ」
「ふうん。で、どんな料理やのん?」
「さ、さあ?」
由里も首をひねる。
しかし出てきた皿を見て紅蘭が言った。
「なんやこれ? カレーライスやんか」
「う、うそ!」
由里は慌てたが、紅蘭はうれしそうに食べ始めた。でも一口食べると言った。
「あれ? でも全然味が違うわ。辛ないで」
「そ、そりゃそうよ。ハヤシライスなんだから。カ、カレーとはまた味が違うのよ」
別に由里のカレーの味が変だったことに紅蘭が気づいたわけでもないのだが、由里はしどろもどろでそう言った
「ふうん。でもこれもおいしいやん。うち、これも気に入ったわ」
「そ、それはよかったわね」
無理に笑顔を作ると由里も食べ始めた。
「ヨシカミ」のあとは二人は由里の言ったとおり「アンジェラス」に向かった。「アンジェラス」は少し戻った仲見世通りの近くにあった。おしゃれな洋風の店構えのカフェである。
二人は店の名前と同じ「アンジェラス」というケーキとコーヒーを頼んだ。
チョコの乗った柔らかいスポンジケーキは口の中でとろけるようだった。
「このケーキ、えらいおいしいわあ」
紅蘭がうれしそうな声を上げた。
「ねえ。神戸にもいろいろおいしい洋菓子のお店があったんでしょ? 聞かせてよ」
由里が聞いた。
「それが前にも言うたけど、パーシーはんは大の和食好きやったさかい、お菓子も和菓子ばかりやってん」
「そうなの? ちょっともったいなかったわね」
由里が残念そうに言った。
スポンジケーキをつつきながら紅蘭が言った。
「そやけど、今日は楽しかったなあ。帝都に来てから一番楽しかったわ。おいしいもんもいっぱい食べれたし」
由里は笑顔で紅蘭を見つめている。紅蘭も由里を見た。
「ほんまに由里はいろいろ詳しいなあ。おいしいお店とか料理とか。うちはそんなこと全然知らへんのに」
由里が笑った。
「うふふふっ! わたし、こういう情報集めるの大好きなのよ。また情報が入ったら紅蘭にも教えてあげるわね」
「ほんならまた二人で食べに行こな」
「ええ!」
二人は顔を見合わせると一緒に微笑んだ。
つづく
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